2011年12月20日火曜日

ルールのアップデート

完璧なルールというものはありません。

とくに生身のものを扱うルールだと、もうほとんど完璧から無限大の距離にあります。というのも、生身というものは、なにをしでかすかわからない存在なのですから。
どんなルールにも、その前提の部分に、ある想定された「しでかすこと」があります。だから、その想定された「しでかすこと」の範囲内であればルールはうまく適用できる、かもしれません。しかし、想定されていなかったことに対しては、ルールは実に的外れな「規制」になってしまうか、あるいは、「見落とし」を引き起こしてしまいます。

こういう不都合に対してぼくたちがとりえる姿勢には、大きく言って2つあります。1つは、本音と建前に分けて対処する、という姿勢。もうひとつは、ルールをいつもアップデートし続け、と同時に現行のルールには従う、という姿勢です。

言うまでもなく、日本の社会は、その前者の「本音と建前」の姿勢でやってきました。一度、決まったルールはテコでも動きません。だから、時代が下るにつれ、ルールが想定していなかった事態が増えてきて、どんどんと現実とあわなくなってきます。でも、ルールは、表向き守っていればよいものなので(建前)、「運用」でなんとかなる、あるいは、ルール違反していてもまあいいじゃない(本音)、としてきたようなのです。ならば、わざわざルールをアップデートしなくてもよいわけで、循環的にますますこの構図が強化されていきました。それがよかったのか悪かったのかは置いておくとして、ともかく、そうした姿勢をとることが、社会全体のコストにとって合理的だったのだ、と思わざるをえません。

ところが、ここにきて、日本の社会はかなり変わってきました。本音が許されなくなってきたのです。本音がなければ建前だけの社会になります。ルールは絶対に守らなくてはなりません。もし守らなければ「極悪」の烙印がおされます。その一方で、一度築いたルールは絶対普遍、ということだけは残ったまま。このことがたいそう、気にかかります。

ルールを守る社会でやっていくためには、もう一度言うなら、そのルールを現実にあわせて、常にアップデートしていかなければならなりません。ルール遵守とルールのアップデートは、いわば車の両輪なのです。

こういうことは、<「法令遵守」が日本を滅ぼす>(郷原信郎、新潮新書)で教わったことです。

これはもちろん、建築についても言えることです。

建築基準法を基礎とする建築についての日本の法律体系もまた、建築物についてのある想定されたイメージに基づいてつくられています。
しかし、設計というのは、その想定内で建物を構想することではなく、その想定を越えても、より「いい」建物を構想することなのです。だから、結果として、その構想が、建築法体系が想定していたことを越えてしまう、というのは日常茶飯事です。つまり日常的に不都合が起きるわけです。
こういう不都合に、かつては「本音と建前」で対処してきました。それが、最近になって「本音」が許されなくなって、「建前」が強化されてきました。にもかかわらず、「ルールをアップデートしていこう」という流れに、なかなかなりません。ほかの分野と同じことですね。

そんなわけで、「このルールのこういうところがいまの現実にあっていない」ということを、まずは、皆がどんどん言っていったらどうだろう、と思っています。ルールにどんな不都合があるか、まずは、それが表に出てこなければ、ルールのアップデートもなにもないわけですから。

(次回につづく)